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僕はジョギングを日課にしている。
この街で自分を忘れずに済む手段は少ない。その手段さえ、ほとんどは金がかかる。
ジョギングはわれわれに残された数少ない聖域のようなものだ。
いつも思う。こんなものまやかしに過ぎないと。汗が流れただけ、息があがっただけ、来た道を戻っただけ。そんなことも心地良い。どうかしてる、と思いながら、走るのをやめられないでいる。
近所にある神社、そこの手水所が僕の途中休憩所だ。
僕はその日もそこで休憩をしていた。休憩はしなくてもいけないし、しすぎてもいけない。当たり前だが、行ったら、戻ってこなくてはならないのだ。
その日、「いつも会いますね」と彼は言った。
手水所で話しかけてきた男は綺麗な白髪で、サングラスをかけ、ヘインズの黒Tシャツにスパッツ姿だった。
浅く日焼けして、張りの良い頬。口元からのぞく歯は美術品のように真っ白だった。
「あたたかくなって走りたくなりましてね」と僕は答えた。
「もしよろしければ、少しの間、一緒に走りませんか?」
「かまいませんよ」
しばらく走ってみて、彼がかなりの長距離ランナーだとわかった。深く長い呼吸はほとんど乱れなかった。
「ひとつ、トラブルがありましてね」と彼は走りながら言った。
僕は黙ったまま、目線を前に向けて走り続けた。
仕事というのは、どこにでもあるものなのだ。選ぶか、選ばないか、それだけだ。
特にこの街では、仕事が服を着て、ジョギングをして、話しかけてくるのだ。
(ヘインズ)Hanes Tシャツ ビーフィー BEEFY 2枚組 H5180-2 090 ブラック M
- 出版社/メーカー: Hanes
- 発売日: 2016/12/07
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気が付くと、春が僕を追い越していた。
コートを脱ぎ、セーターを脱ぐと、春風がシャツの間の通り抜けていった。
駐車場まで歩きながら、すれ違う人々の表情に目をやった。
またひとつ季節がめぐったのだ。
僕はコーヒーを買って車に乗り込み、煙草に火をつけて、しばらく考え事をした。
そう、またひとつ季節がめぐったのだ。
彼女を失った日がまた少し遠くなったのだ。
彼女は極度の花粉症だった。
だから毎年桜の季節になると、彼女は一日中不機嫌だった。
彼女は、まさか、というくらいティッシュを使った。
仕事から帰ると必ずゴミ箱がティッシュの山であふれかえっていた。
僕は辛そうな彼女を元気づけようと思って冗談を言った。
「新しい同居人を探さないか、名前はヤギ、主食は紙さ」
彼女は笑ったような気もするし、呆れていたような気もする。
ずいぶん昔の話だ。本当にヤギでも飼っていれば、そいつが真実を教えてくれたかもしれない。とても残念だ。
運転席から眺める空っぽの助手席にもずいぶん慣れた。
僕は煙草の火を消し、ぬるくなったコーヒーを飲み干し、エンジンをかけた。
昼下がりの街をしばらくドライヴしていると、桜並木を通りかかった。
満開の桜木が今まさに風に散りゆく最中だった。
それはちょうど桜色のカーテンに包まれるようで、素晴らしい景色だった。
桜の花びらは春の日差しを浴びて、流星のようにきらきらと回転しながらそれぞれに宙を舞った。
どこかで誰かのくしゃみの音が聞こえた気がした。
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その夜も、分厚い雲がわれわれの街を覆っていた。
マフラーを首元に巻き付け、さながら太った鳥のような姿で、寒風に耐えながら自宅へ向かった。
僕がその日にこなしたのは、実に簡単な仕事だった。
二度ほど女に右頬を張られればそれで終いだった。
おかげで顔の左半分が綺麗に見えた。
どんなときも良い面を見るのが大人というものだ。
依頼主はタイトなスーツに身を包んだ若い男だった。
開口一番に別れたい女がいると言った。
男が左手の薬指にはめた指輪は、嵐の前触れの暗雲みたいに暗く光っていた。
「相手は奥様ですか?」と僕は言った。
「違う」と男は答えた。「五年愛人関係だった女だ」
「正直にあなたのことをクズと言わせていただいてもよろしいかな」
「かまいませんよ、仕事柄、罵倒されるのは慣れています」
報酬はキャッシュで100万円。その場で手渡しだった。
「リッチですね」と僕は言った。
「色々な人たちに罵倒されながら稼いだ金です、お気になさらずに」
家に戻ると僕はまっさきにキッチンで湯を沸かした。
そして、スープストックトーキョーのかぼちゃのスープを作り、石窯パンをかじった。
窓の外ではすべてを凍てつかせる冬の風が吹き荒れていた。
かぼちゃの甘みが体の芯を一層あたためてくれた。
噛み応えのある石窯パンはスープによくあった。
こんな夜ほど、スープとパンに限る。
この街に吹く冷たい風に、大切なこころを奪われないためにも。